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サンパウロの主要通りの由来 (駐在員のための手引き) 2005/05/31

サンパウロの主要通りの由来
(駐在員のための手引き)

2005年5月
ジェトロ・サンパウロ 桜井

  GRUPO PLAMARC社から発行されたSILVA COSTA ROSA著の「1001 RUAS DE SAO PAULO」(2003年発行)を参考にし、駐在員に比較的馴染みのある通りの由来を昨年5月にとりまとめたが、今回、パウリスタ界隈、パライソ界隈、歴史的な由来的なものを少し拡充した。コンピューターの都合で、ポルトガル語独特のアルファベットやアクセントについてはうまく表現されていないことをあらかじめお断りする。今後ますます充実させていきたいので、他に知りたい道路、広場の由来があれば、ジェトロの桜井まで連絡のこと。(電話:3141-0788)

「A」
Abilio Soares,Rua
 パライソ。 ポルトガル生まれ。ブラジルに帰化、地主・商人、共和国キャンペーンに参加,市会議員。
Aclimacao, Avenida
 アクリマソン。フランスのアクリマシオン公園に魅了されたブラジル人が命名。
Afonso de Freitas, Rua
 パライソ、ヴィラ・マリアナ。1868年サンパウロ生まれ、多くの新聞に協力、作家として、「サンパウロの伝統と回想」を執筆,サンパウロの歴史についての調査,サンパウロ歴史研究所の所長を長年務めた。
Alcantara Machado, Avenida
 ブラス、セ。1875年ピラシカーバ生まれ。市会議員,県会議員,連邦上院議員、「バンデイランテの人生と死」を執筆、ブラジル文学アカデミー会員
Alvares Penteado, Rua
 セントロ、セ。1852年サンパウロで生まれ。農民としてファゼンダを開く、その後、産業家として2つのジュートの紡績、織物工場を建設。さらに商業学校を設立、現在でもEscola dee Comercio Alvares Penteadoとして残っている。
Alzira Maruyama, Rua
 ヴィラ・ノーヴァ・ヨルキ。Alzira  Haguiwara Maruyama、日系の人なので掲載した。1929年生まれ。アリカンドウーバ地域の名士
Ana Rosa, Largo da
 ヴィラ・マリアナ。Ana Rosa de Araujo、多額の遺産を残し、遺言で慈善の家を設立した。1875年、遺産によりInstituto Dona Ana Rosaが設立され、貧しい子供たちの養育を行なっている。
Angelica, Avenida
 サンタ・セシリア、セ。Maria angelica Souza Queiros de Barros。そのとおりの界隈の大地主。1929年10月に高齢で死亡
Anhangabau, Parque
 セントロ,セ。インヂオのトウピ語のNhangabauからの由来。その地を流れていた川の名前で、「有毒の水」を意味する。
Antartica, Avenida
 バーハ・フンダ。1889年に創立されたAntartica Paulistaビール工場に敬意を表し命名された。
Antonio Prado, Praca
 セントロ,セ。1840年サンパウロ生まれ。サンパウロ市会議員,県会議員,上院議員、連邦では、「移民振興協会」の創始者の一人。
Aracari, Rua
 シャカラ・イタイン、ピィニエイ。ブラジルの南部、南東部に存在する鳥の1種であるアラサリからとったもの。大きさ36センチくらいで黄色、くちばしはトウカーノのように大きい。
Arvore, Praca da
 ボスケ・ダ・サウジ、ヴィッラ・マリアナ。この近くに19世紀に住民によって使われたボスケ・ダ・サウジと呼ばれた大森林が存在した。その後、このあたりに駅が作られ、森林を記念してArvore(木)と呼ばれるようになった。
Augusta,Rua
 コンソラソン。通りの由来は明確ではない。2説あり、一つは、その地域の地主であったMaria Augustaから来たという説、もう一つは、1850年に生まれた作曲家Maria Augusta Leopoldinaから来たという説。
Aurora,  Rua
 サンタ・イフィジェニア。パラグアイとの戦争におけるブラジル軍の勝利に敬意を表して命名された。

「B」
Bandeira, Praca
 セントロ、セ。ブラジルの国旗に敬意を表して命名される。1889年にRaimundo Teixera Mendes とMiguel Lemosによって計画され、 Decio Vilaresによって設計される。緑は森林,黄は資源、球は共和国宣言時のリオの空,星は州を表わす。
Bandeirantes, Viaduto
 ジャルジン・ノーヴォ・ムンド、ヴィッラ・マリアナ。未開地の資源に魅惑され、富を求めて奥地に出かけたバンデイランテスを思い出すため。
Barao de Campinas,Alameda
 カンポス・エリセオ。本名Joaquim Pinto de Araujo Cinta、1824年アチバイア生まれ。大農園主、資本家。ミナスジェライスで判事、市会議員。アンパロで国家防衛隊の指揮官を勤め、そこにAna Cintra 病院、Braganca病院をつくる。
Barao de Capanema, Rua
 セルケイラ・セサル、ピニエイロス。Guilherme Schuch de Capanemaという人物からとる。1824年、ミナス・ジェライス生れ。数学家、軍人。ブラジル統計院の創始者、王国の最後の電信局長。
Barao de Iguape, Rua
 リベルダージ,セ。本名Antonio da Silva Prado,1788年サンパウロ生まれ。商人、独立運動(1822年)やサンパウロにおける革命(1842年)で功績があったとして帝国政府から男爵位を授与された。
Barao de Itapetininga, Rua
 セントロ、セ。本名Joaquim Justo da Silva。現在のアニャンガバウ、テアトロ・ムニシパル、レプブリカ広場界隈の地主。最初にお茶の葉をViaduto de Chaに植えた人物。
Batatais, Rua
 ジャルジン・パウリスタ、ピニエイロ。サンパウロの都市。元々フランカの小教区に属するファゼンダ・バタタイスとバタタイス川に建設されたBom Jesus da Cana
Verde de Batataisからとったもの。
Bela Cintra, Rua
 コンソラソン、セ。古い荘園からとったもの。その場所がリスボンの郊外にあるシントラの町に良く似ているところから、土地所有者が、そこにDivino Espiritu Santo de Bella Cintraを称え小教会を建設したのがその由来。その教会は、今日Rua Frei Canecaにある。
Benjamin Constant, Rua
 セントロ、セ。Benjamin Constant botelho de Magalhaesからとる。1836年リオ生れ。軍人でパラグアイ戦争に参加。盲人研究所の設立に従事。
Bernardino de Campos, Rua
 ブルックリン・パウリスタ、サント・アマ-ロ。Bernardino Jose de Campos Jr.からとる。1841年ミナスジェライス生れ。法律を学び、サンパウロ選出の議員、共和国最初の警察長官。サンパウロ州統領2度、上院議員を歴任。
Boa Vista, Viaduto
 セントロ、セ。1711年にはすでにこの名前がついていた。おそらく、その当時は建物もなく、広大な景色が眺望できたものと推察される。
Brigadeiro Faria Lima, Avenida
 ピニェーロス。本名Jose Vicente de Faria Lima。1909年生まれ。空軍省の創設に参画。カンポ・デ・マルテ司令官、マルジナル・チエテやピニエーロ、Vinte e Tres de Maio、メトロの建設が開始された当時のサンパウロ市長。
Brigadeiro Luis Antonio, Avenida
 ジャルジン・パウリスタ。本名Luis Antonio de Souza Queiros。1746年ポルトガル生まれ。ブラジルに移民、イトゥーの歩兵隊に入隊、その後、大尉、中佐、大佐と昇進し、1818年准将に昇格。後、商人Santa Casa等に多額の資金を寄贈。
Butanta, Rua
 ピニェイロ。トゥピー語で「固い土地」を意味する。16世紀には、ubutataと呼ばれ、最初の砂糖の倉庫が1607年に建設された。

「C」
Caio Prado, Rua
 コンソラソン。サンパウロ出身の政治家、帝国時代の国会議員、ジャーナリスト、セアラ州知事、「Correio Paulistano」の編集長。
Campinas,Alameda  左右
 べラ・ヴィスタ。サンパウロ州の都市。1773年6月17日に建設される。当初は、Nossa Senhora da Conceicao de Campinasと呼ばれたが、その後Sao Carlosに改名され、1842年都市に昇格し、Campinasとなった。
Carlos de Pinhal, Alameda
 サンパウロ州の都市からとったもの。サントスはコーヒーの積出港として有名でその名をとったが、SaoCarlos de Pinhalは,技術の町及びコーヒーの生産で潤った裕福な町として重要であった。
Carlos Gomes, Praca
 セ.Antonio Carlos Gomesからとる。1836年サンパウロ生れ。多くの人から米州の音楽の天才と考えられている。歌曲「グアラニ-」や「Noite no castelo」の作曲で有名。
Carlos Sampaio, Rua
 べラ・ヴィスタ。リオの市長、リオ・デ・ジャネイロポリテクニコの教授。1875年から1930年にかけてリオの都市計画の責任者。
Carlos Steinenn, Rua
 パライソ。本名Karl von den Steinenn。ドイツ生れ、民俗学者、ブラジルの民俗学、民族誌学に従事、インジオについてのいくつかの作品を残す。
Casa Branca, Alameda
 セルケイラ・セザル。本名Vicente Ferreira de Sylos Pereira(カサ・ブランカ男爵)、1810年生れ,軍人、若くしてサンパウロに来て、カサ・ブランカに定住。慈善家として有名。
Casa Verde, Alameda
 ヴィラ・エステール、カーザ・ヴェルデ。Agostino Delgado de Arocheと呼ばれた軍団長の娘たちの所有する小教会から来ている。彼女たちは、Casa Verdeの少女たちと呼ばれていた。
Casper Libero, Avenida
 サンタ・イフィジェニア。1889年ブラガンサに生れる。ブラジルで最初の通信社を設立。A Gazetaの編集長、A Gazeta Esportivaの創設、サン・シルヴェストレを始める。
Cha, Viaduto
 セントロ、セ。現在のテアトロ・ムニシパルのあるところにお茶が植えられたことにちなむ。1938年に鉄橋のViaduto de Chaが建設された。
Cidade Jardim, Avenida
 ジャルジン・エウロ-パ、ピニエイロ。その通りを区画したデベロッパーによる命名。その土地が平坦で、植樹されていたから。
Cincinato Braga, Rua
 べラ・ヴィスタ。 ピラカイバに1864年に生れる。法学者、州議員、連邦議員、ブラジル中央銀行総裁、多くの作品の著者。
Comendador Tadashi Nishi, Praca
 ヴィラ・フォルモーザ。1920年生れ、ブラジルに農民として移民、ブラジルに帰化する。内陸部及びサンパウロで多くの商業連盟,スポーツ連盟に協力・貢献。その功績により種々の勲章を授与される。
Conceicao, Avenida
 ヴィラ・メデイロ。一般的な起源の名称。市内からNossa Senhora da Conceicao dos Guarulhosへの道を思い起こさせる。
Consolacao, Rua de
 コンソラソン。1810年から命名されている。たぶんNossa Senhora da Consolacaoから来たものと推察される。
Cubatao, Rua
 ヴィラ・マリアナ。サンパウロからサントスに向かう街道の近くのパラナピアカーバの山間にある小さな町が由来。その近くに、クバトン川が流れていた。

「D」
Dez de Julho, Rua
 サン・ミゲール。1932年7月10日にサント・アマ-ロの町が市に昇格したことを記念したもの
Dez de Novembro, Rua
 シャカラ・フローラ。1937年11月10日にジェツーリオ・ヴァルガスによって新国家を設立する憲法が宣言された日。
Dezenove de Janeiro, Avenida
 コロンジィーニョ。1946年1月19日に新国家が終焉し、民主主義が戻った日を記念したもの。
Dois de Julho, Rua
 ィピランガ。1823年7月2日、Reconcavo Baianoと呼ばれる独立運動のブラジル軍の出発を記念したもの。
Doutor Arnaldo, Avenida
 スマレー、ピニエイロ。Arnaldo Vieira Carvalhoからとる。1867年生れ、医者。サンパウロ大学医学部の創設者、最初の学部長。最新の科学技術を導入し、ブラジルの外科手法を革新した。
Doutor Melo Alves, Rua
 セルケイロ・セサル、ピニエイロ。Joao Tomas de Melo Alvesからとる。1861年リオ生れ、法律学者、サンパウロの判事。
Doutor Renato Paes de Barros, Rua
 シャカラ・イタイン、ピニエイロ。サンパウロ州イトゥー生れ。法学教授、裁判所長官、サンパウロ社会法研究所の創設者。公共省の法律を編纂。
Doutor Rafael de Barros, Rua
 パライソ。1835年、イットウーに生れる。サンパウロ市会議員、ジョッキー・クラブの創設者の1人。
Doze de Outubro,Rua
 ァパ。1492年10月12日、コロンブスのアメリカ大陸到達日

「E」
Engenheiro Antonio de Carvalho Aguiar, Viaduto
 パライソ。1911年、アララクアラに生れる。エンジニア、教授、コレジオ・バンデイランテスを経営、州教育審議会、アルヴァレス・ペンテアード財団のメンバー、マウア・エンジニアリング学校の創始者。

「F」
Francisco Matarazzo,  Avenida
 アグア・ブランカ。1854年イタリアに生れる。1881年にソロカバに移住、小さなビジネスを始める。その後、2人の兄弟と一緒に、Matarazzo & Irmaos社を設立。サンパウロに移り、ラテンアメリカ最大のコンビナートをつくる。ブラジルの工業化のパイオニア的存在。1928年にサンパウロ工業センターを創設する。
Frei Caneca, Rua  右側
 セルケイラ・セサル、セ。本名Frei Joaquim do Amor Divino、1779年レシフェに生れる。説教者、政治家、ジャーナリスト、詩人。マラニョンの司教。帝国に対する数々の反乱に参加。1824年の革命の首謀者だったため、1825年銃殺死刑となった。

「G」
Galvao Bueno, Rua
 リベルダージ、セ。本名Carlos Mariano Galvao Bueno.1834年サンパウロに生れる。法学者、哲学の論文を出版、学会に広めた。
Guilherme de Almeida, Viaduto
 リベルダージ、セ。1890年生れ。詩人、1922年のモデルにスモ運動に参加。恋の詩が多い。ブラジル文学アカデミーに所属、1969年死亡。
Governador Carvalho Pinto, Avenida
 ジャルジン・ジャウー。1910年生れ。法学者サンパウロ州財務長官、上院議員,サンパウロ州知事を勤める。

「H」
Haddock Lobo, Rua
 セルケイラ・セサル。1817年ポルトガルで生れる。医者,若くしてブラジルに渡る。帝国医学アカデミー会員、リオ市会議員、平行6面体の敷石歩道を導入した。
Helena,  Rua
 イタインビビ。トロイのヘレンが由来。ギリシャ神話のゼウスとレダから生れる。
Henrique Martins, Rua
 ヴィラ・プリマヴェラ、ピニエイロ。Henrique Francisco Martinsからとる。1832年生れ。軍人、リオ・ダ・プラタの戦い、パイサンヅーの爆撃に参加。その功績で、ブラジル政府は、海軍の軍艦の1つに彼の名前をつけることを認めた。

「I」
Ibirapuera, Avenida
 モエマ。1560年、アンシエッタ神父によって建設されたインジオの村。インジオの言葉で「腐った木材」を意味するVirapoeiraからBurapueira、 Birapueira、,Ebirapueira となり最後にIbirapueraとなった。
Iguatemi, Rua
 シャカラ・イタイン。1765年ポルトガルの命令で、イグアテミ川の左岸にLuis Antonio de Souza Mourao州知事によって建設された軍港、入植地からの由来。
Indianopolis, Avenida
 モエマ。米国のインデイアノポリス市に敬意を表し,地元の地主が命名したもの。
Imperatriz Leopoldina, Avenida
 ヴィラ・レオポルジ-ナ、ラパ。Leopoldina Josefa Carolina Francisca Fernanda Beatriz de Habsburgo-Lorenaが本名。1797年ウイーンに生れる。ドン・ペドロ1世の奥方、ブラジル最初の皇后。1826年リオで死亡。
Interlagos, Avenida
 ジャルジン・マラジョアラ、シダージ・アデマル。グアラピランガとビリングスのダムにある2つの大きな湖の間にあるところから来ている。
Ipiranga, Avenida
 セントロ,セ。「イピランガの叫び」に敬意を表するため。地域の丘にモニュメントをつくるための委員会が開催されたのが由来。「赤い水」、「粘土質の水」を意味する。
Ismael Neri, Rua
 アグア・フリア、サンタナ。1900年、べレン生れ。画家、ブラジルのシュールレアリズムの先駆者と考えられている。Di Calcavanti やPortinari当に影響を与えた。1934年に死亡したが、1965年の第8回サンパウロ・ビエンナーレの時まで無視されていた。
Itapeva, Rua  右側
 べラ・ヴィスタ。トゥピー・グアラニー族の言葉で、Pedra Chata(平たい石)を意味する。

「J」
Jabaquara, Avenida
 ミランドポリス。シリリカ市とアピアイ市の間を流れるピロンエス川の支流の小川がその由来。トゥピー語では、岩石ないしは、穴を意味する。
Jau, Alameda
 セルケイラ・セサル。サンパウロの都市、名前の由来は、バンデイランテスがこの地の川でjahuと呼ばれる魚を釣っていたことから来る。意味するところは、「暴飲暴食する魚」ないしは、「反抗的な子供の身体」
Jeronimo da Veiga, Rua
 シャカラ・イタイン、ピニエイロ。バンデイランテ。金を発掘者であるとともに数々の探検に参加。1660年にサンパウロで死ぬ。
Joaquim Eugenio de Lima, Alameda
 ジャルジン・パウリスタ。1845年ウルグアイで生まれる。パウリスタ通りを考え、つくった人。
Jose Maria Lisboa, Rua
 ジャルジン・パウリスタ。1838年,ポルトガルに生まれる。ジャーナリスト、サンパウロに着き、いくつかの新聞で働く。Almanaque Literario Paulistaを創刊。 Diario Popular の発刊の責任者。Beneficencia Portuguesaやサンパウロ歴史・地理遺産研究所を設立した。
Josue de Castro, Avenida
 パルキ・ジャバクアラ。1908年ペルナンブコに生まれる。政治家、社会学者、経済学者、人類学者。世界的に有名となった作品「飢餓の地理学」の著作者。
Julio Prestes, Praca
 カンポス・エリセオス。1888年イタペチニンガで生まれる。弁護士、州議員、州知事に選出される。共和国の大統領に選ばれたが、1930年にジェツリオ・ヴァルガスにより打倒された結果、権力を行使することができなかった。
Juntas Provisorias, Avenida das
 ィピランガ。独立宣言の直後に創設されたブラジルの臨時議会からとる。独立宣言の起草者は、Mateus de abreu Pereira, Jose Correia Pacheco e Silva, Candido Xavier de Almeida e Souzaの3人。
Jurupis, Alameda dos
 モエマ。ミナスジェライスのbotocudosと呼ばれるインジオから来る。

「L」
Lagrimas, Estrada das
 ヴィラ・エリオポリス。サンパウロから海に出かけるすべての人にとって、涙で別れを惜しむ場所で、古い木があった。
Leoncio de Carvalho, Rua
 パライソ。1847年リオに生まれる。弁護士、法学教授、自由党に入党、サンパウロ大学法学部長、最初のサンパウロ州法の起草者の一人。
Liberdade, Praca da
 セ.この広場では,絞首刑が行なわれていたため、絞首台の広場と呼ばれていたが、住民の要望により絞首台が移され、自由の広場(Largo de Liberdade)となった。ブラジルでは死刑が、1874年に廃止された。
Libertador Simon Bolivar, Praca
 ジャルジン・エウロ-パ。1783年生まれ,言わずとしれた南米の解放者。南のサン・マルテインの並び称される。
Lorena, Alameda
 コケイラ・セサル。いろいろ名前が変わったが、今の名前は、Bernardo Jose de Lorena将軍から来ている。
Luis Coelho, Rua
 この通りは、1890年代にポルト・マルチン子爵であるJose Coelho Pamplona氏所有の小農園にあった。Luis Coelho Pamplona氏は、Jose Coelho氏の息子で、ポルトガルで学び、その地域の不動産、コーヒー園、牧場を持つ大地主であった。

「M」
Maestro Vila Lobos, Avenida
 ヴィラ・グスターヴォ。1887年生まれのブラジルの誇る偉大な作曲家。作品の数は、600を超える。
Major Sertorio, Rua
 ヴィラ・ブアルキ。1824年生まれ。サンパウロ市議会副議長。
Manuel da Nobrega, Rua
 パライソ。1517年、ポルトガルに生まれる。イエズス会の使徒。ポルトガルから派遣された最初の総督であるTome de Sousaに同行してブラジルに渡る。彼の請願により、最初の司教管区が設立される。
Marconi, Rua
 セントロ、セ。Guilhermo Marconi.1874年、イタリアに生れる。電信の発明者、1922年ノーベル物理学賞を受賞。
Marechal Bittencourt, Rua
 ジャルジン・パウリスタ。1840年生まれ。プルデンチ・モライス大統領時世の陸軍大臣。1897年にモライス大統領を守って死ぬ。1940年にジェツリオ・ヴァルガス大統領は,法令により、彼を陸軍サービスの守護者にする。
Maria Figueredo,Rua
 パライソ。その地域の大地主だったJose Borges de Figueredo氏の妻に敬意をひょうしたもの。   
Mercurio, Viaduto
 パルキ・ドン・ペドロⅡ.ギリシャ神話に出て来る商業,戦争,平和の神、ジュピターの息子。
Ministro Rocha Azevedo, Alameda
 ジャルジン・パウリスタ。1864年ミナスジェライス生まれ。法学者、当時のいくつかの新聞に協力。サンパウロ市長、法務大臣。
Misercordia, Largo da
 セントロ、セ。昔の古いIgreja de Irmandade da Santa Casa de Misercordiaから由来する。
Moema, Avenida
 モエマ。トゥピー語で「夜明け」または「朝」を意味する。またJose de Santa Rita Durao神父による叙事詩Caramuruに出て来るヒロインの一人。
Moreira Guimaraes, Avenida
 インジアノポリス、ヴィラ・マリアナ。Jose Maria Guimaraesが本名。1864年セルジッペで生れる。軍人、セルジッペ州選出連邦議員、リスボン地理学会、サンパウロ歴史研究所に所属。ブラジル哲学学会の設立者。
Morumbi, Avenida
 シダージ・ジャルジン。18世紀の半ばにサント・アマ-ロの近郊にあった古いファゼンダの名前。トゥピー語から来たもので、「小山」とか「非常に高い丘」を意味する。

「N」
Nazare, Avenida
 イピランガ。1635年6月2日のペルナンブコでのオランダとの戦争のエピソードを思い出させるため。ナザレ-の要塞で敵の包囲に対し、最後まで抵抗した。
Nove de Julho, Avenida
 べラ・ヴィスタ。1932年7月9日に起こった「立憲革命」として知られた軍の運動の蜂起の日。

「O」
Oito de Setembro, Praca
 ペーニャ・デ・フランサ。17世紀の初めから名前をもっている地域の守護者であるNossa Senhora de Penhaの生誕と奇跡を記念する日。
Onze de Agosto, Rua
 セントロ,セ。1827年8月11日にブラジルで初めて法学のコースが開設されたのを記念して設けられた。   
Onze de Junho, Viaduto
 インジアノポリス。1865年6月11日にパラグアイ戦争でブラジル海軍がRiachueloの戦いで勝利した日。
Oscar Freire, Rua
 ジャルジン・パウリスタ。1882年バイアに生まれる。医者、Sociedade de Medicina Legal e Criminologia (法学・犯罪医学協会)やSociedade de Educacao e Ensino(教育・指導協会)を設立。
Oswaldo Cruz, Praca
 パライソ、セ。Oswaldo Goncalves Cruzが本名。1872年サンパウロ州生まれ、医者。ペストや黄熱病との闘いに貢献があった。彼の提案により天然痘のワクチン投与が義務付けられた。ブラジル文学学会、レジョン・ド・ヌール勲章受賞。リオ州ペトロポリ市長を歴任。

「P」
Pacaembu, Avenida
 バーハ・フンダ。チエテ川の左岸の支流の小川から来た伝統的な名前。トゥピ語で「パカ(天竺ねずみ)の小川」を意味する。
Padre Joao Manoeel, Rua
 セルケイラ,セサル。帝国時代の下院議員。王座があった議会で「共和国万歳」と叫んだことで有名。
Padre Jose de Anchieta, Rua
 ジャルジン・サント・アマ-ロ。1534年スペインで生まれる。イエズス会、作家、サンパウロ市の創設者。Gramatica tupiや宗教詩 De Beata Virgine Dei Matre Maria等ブラジルにおける文学作品の初期を飾った。1980年ヨハネ・パウロ2世によって、聖人の列に加えられた。
Pamplona, Rua
 べラ・ヴィスタ。本名Jose Coelho Pamplona、商人、首府の大石鹸工場の創始者・所有者、今のパンプロ-ナ通り界隈の大地主。
Patriarca, Praca do
 セントロ、セ。独立の父(Patriarca de Independencia)と呼ばれたJose Bonifacioからの由来。
Paulista, Avenida
 パライソ。1890年に建設される。この名前は、Joaquim Eugenio de Limaが命名。1891年12月8日に厳粛にセレモニーが催された。サンパウロでアスファル化され、並木のある初めての公道。イルミネーションもされていた。
Pedroso de Morais, Avenida
 ピニェイロ。サンパウロで生まれる。パウリスタのバンデイランテ。16世紀末から17世紀の初めにブラジル南部を探検し、多くのインジオを捕虜にした。「Terror de Indios」とあだ名された。
Peixoto Gomide, Rua
 ジャルジン・パウリスタ。1849年サンパウロに生まれる。法学者、アンパロ市市会議員、後上院議長。
Piratininga, Rua
 ブラス。グアイアノ族の村。その当時、イエズス会にサービスを提供した酋長Tibiricaがいた。この土地がVila Sao PAULO de Piratiningaになり、後にサンパウロ市に発展した。
Polvora, Largo da
 リベルダージ。1785年上院の命によって建設された火薬工場からの由来。
Presidente Castelo Branco, Rua
 ボン・へチロ。1900年、セアラに生まれる。軍人、将軍、元帥、大統領。
Profesor Artur Ramos, Rua
 ジャルジン・エウロ-パ、ピニエイロ。1903年アラゴアス生れ。精神科医、人類学者、民俗学研究者、教育・健康賞の精神衛生部門の創設者。ブラジル人類学・民俗学学会の創始者。

「Q」
Quatorze de Julho, Rua
 べラ・ヴィスタ。フランス革命時の1789年7月14日のバスチーユ牢獄陥落を記念して命名。

「R」
Ramos de Azevedo, Praca
 セントロ。1851年カンピーナスに生まれる。エンジニア-、サンパウロの主要建築のほとんどが彼によって建設された。テアトロ・ムニシパルのある広場。
Reboucas, Avenida
 ジャルジン・パウリスタ。本名、Antonio Pereira Reboucas Filho、軍のエンジニア-、クリチバ-パラナグア間の鉄道建設の責任者。
Rui Barbosa, Rua
 べラ・ヴィスタ。1849年、サルヴァドールに生まれる。作家、ジャーナリスト、弁論家、政治家。奴隷廃止主義者として有名。下院議員、選挙改正法の策定に携わる。共和国大蔵大臣、1891年の最初の共和国憲法の起草、2度大統領候補、ブラジル文学アカデミーの創始者、作品多数。
Rio Claro, Rua 右側
 べラ・ヴィスタ。サンパウロ州の都市からとっている。元々1826年に建設され、当初Sao Joao do Riberao Claro de Piracicabaであったが、町の拡大と共に名称が変わり、1905年に今のRio Claroになった。

「S」
Sampaio Viana, Rua
 パライソ。1867年、サルヴァドールで生まれる。法学者、市会議員、副市長、州議員、Caixa Economica Federalの会長を勤めた。
Santa Cecilia, Rua
 サンタ・セシリア。1899年に消滅したが、その土地にあった古い礼拝堂がその由来。その後1901年に新しい教会が建設された。
Santa Cruz, Rua
 サウージ。ポルトガル人は最初に到着した土地をTerra de Santa Cruzと命名した。したがって、ブラジルには、サンタ・クルスという名の場所が多い。
Santa Ifigenia, Rua
 セントロ。サンパウロ市の地域、教区の伝統的な名前。その教区に、1794年にIgreja da Senhora do Rosarioからサンタ・ィフィジェニアの像が届けられ、翌95年に始めてのミサが執り行われた。。
Santa Marina, Avenida
 アグア・ブランカ。サンパウロで最も重要なガラス工場の一つであるVidraria Santa Marinaの社長が娘のMarinani敬意を表して命名。
Santa Rosa, Rua
 ブラス。1586年、ペルーに生まれる。ドミニコ会、黒人やインジオに対してとりわけ情け深かったことで有名。米州大陸で最初の聖女。
Santo Amaro, Avenida
 サント・アマ-ロ。サンパウロ市の南部でジェリバチ-バ川の岸に位置する古い集落。アンシェッタ神父に指導されたグアイアノ族の村で、サント・アマロの加護のもとに礼拝堂が建てられた。
Santos, Alameda
 セルケイラ・セサル。サンパウロ州第2の都市サントスに敬意を表して命名。
Sao Joao, Avenida
 セントロ。昔、アニェンガバゥ川を渡るのは非常に危険だと思われていた。茶畑を通り、川を渡り、丘を登らなければならなかった。そこで、川を渡る人は、お守りとして水の守護者であるサン・ジョアン・バチスタの像を持参した。
Sao Joaquim, Rua
 リベルダ-ジ。本名、Joaquim Lopes Lebre、1834年、ポルトガルに生まれる。商人、慈善家、Sociedade Beneficencia Portuguesaの創始者の一人。Hospital Sao Joaquimをつくる。ポルトガル政府から男爵、サン・ジョアキン侯爵の称号を受ける。
Sao Luis, Avenida
 セントロ。サンパウロの伝統的な通り。昔はBeco Compridoと呼ばれていた。サンパウロで開かれた最も古い道の1つ。
Se, Praca
 セントロ。サンパウロ・セ・大聖堂がある場所で、最も古い広場の1つで1594年に建設された。
Sete de Abril, Rua
 へプブリカ。1831年4月7日、ドン・ペドロ1世のブラジル王退位の日。
Sete de Fevereiro, Praca
 ヴィラ・フォルモーザ。1827年2月7日,ブラジルで最初の新聞、Pharol Paulistanoが発行された。
Sete de Novembro, Rua
 ヴィラ・イゾリーナ・マッツエィ。1837年11月7日、ブラジルへの奴隷輸送が禁止された日。
Shuhei Uetsukg, Viaduto
 リベルダージ。1875年日本で生れる。東京帝国大学で法律を学ぶ。植民者と農場主の間に立って、双方のメリットになるよう努力した。日本政府から勲章を授与される。

「T」
Tarsila do Amaral, Praca
 ジャルジン・ロンドリーナ、ブタンタン。1897年サンパウロ生れ。ブラジルのモデルニスモを代表する画家。1926年パリで大成功を納める。
Teixeira da Silva, Rua 左右
 べラ・ヴィスタ、dr. Antonio Teixeira da Silvaが本名。1886年ラルゴ・サンフランシスコの法学部で学ぶ。1891年司書、その後弁護士として活躍。
Teresa Cristina, Avenida
 イピランガ。Teresa Cristina Maria de Bourbon,ブラジルの皇后、1822年、イタリアに生まれる。ブラジルには1843年到着。政治からは遠ざかり、慈善の仕事に没頭したので、ブラジル人の母と呼ばれた。
Tesouro, Rua do
 セントロ,セ。昔ここに財務省があった。
Tome de Souza, Rua
 ラパ。1503年生まれ。最初のブラジル総督。1549年、バイァに到着、サルヴァドール市を建設、公共の建物、宗教建築の建設責任者。1579年死亡。
Trajano, Rua
 ラパ。Marcus Ulpius Trinitus Trajanoが本名。スペイン、セビリャ生れのローマの皇帝。西暦98年から117年まで統治。ローマの5賢帝の一人、トラヤノス帝。
Trea Rios, Rua
 ボン・レチロ。トレス・リオス侯爵と呼ばれたJoaquim Egidio de Souza Aranhaは、1821年,カンピーナスで生れた。市会議員,サンパウロ州副知事を経て、3期州知事を務める。サンパウロ鉄道会社を創設。銀行家としても活躍。
Treze de Maio, Rua
 べラ・ヴィスタ。1888年5月13日、黒人奴隷を廃止した有名なアウレア法を署名した日
Trinta e Um de Marco, Rua
 ジャルジン・モルンビー。1964年3月31日、当時のゴウラ-ル大統領が,クーデターで倒れ、カステロ・ブランコ将軍が実験を握り,以後1985年まで軍政が続くことになった。
Tuim, Rua
 インジアノポリス、ヴィラ・マリアナ。ラテンアメリカ起源のインコの1種。ツイン、ツインと鳴くところから命名される。
Tuiuti, Rua
 タツアペ。1866年5月24日、連合軍とパラグアイ軍が戦争をした場所。最も血なまぐさい戦闘であったと言われている。
Tutoia, Rua
 パライソ。北東部のマラニョンの都市、農業、漁業等で生きている。

「V」
Vergueiro, Rua
 ヴィラ・マリアナ。本名、Nicolau Pereira de Campos Vergueiro。1778年、ポルトガルで生れる。法律を学びサンパウロで弁護士,農場経営を行う。欧州からのコロノのために自由な仕事の方法を導入した。ドン・ぺドロ1世の退位の後の,臨時議会のメンバー。
Vinte e Cinco de Janeiro,Rua
 ルス。1554年1月25日、今日のサンパウロ州の首府の起源になったVila Sao Paulo de Piratiningaが建設された日。
Vinte e Cinco de Marco, Rua
 パルキ・ドン・ペドロ2世。1824年3月25日、皇帝、リオ司教、議会によってブラジルで初めての帝国憲法の誓いがなされた日。
Vinte e Quatro de Fevereiro, Avenida
 ヴィラ・フイ・バルボーザ。1684年、マラニョンで奴隷問題をきっかけに勃発した「マノエル・ベックマンの反乱」の勃発の日
Vinte e Quatro de Maio, Rua
 べラ・ヴィスタ。1866年5月24日、パラグアイ戦争での最も激しい戦争が行われ、勝利した日。トゥィウチの戦いで知られる。
Vinte e Tres de Maio, Avenida
 べラ・ヴィスタ。1932年5月23日、サンパウロの民衆が,広場に集まり、連邦政府に、憲法の制定と新しい事務局の設置を要求した。へプブリカ広場で戦闘がおこり、Martins,、Miragaia、Drausio、Camargo(MMDC)が暗殺された。この事件が7月9日事件の先駆けとなる。
Vital Brasil, Avenida
 ブタンタン。1865年,ミナスジェライス州のカンパーニャ生れ。蛇毒の血清で有名。ブタンタン研究所に行けば、彼の業績がよくわかる。
Vitor Brecheret, Rua
 ヴィラ・マリアナ。1894年サンパウロ生れの彫刻家、プラスチック・アーチスト。イビラプエラ公園にあるバンデイランテス・モニュメントの作者。
Vitoria- Regia, Praca
 シダージ・ジャルジン、ブタンタン。アマゾンに生育する直径180センチにもなる巨大ハス
Voluntarios da Patria, Rua
 サンタナ。パラグアイ戦争でブラジルのために戦ったあらゆる人々に敬意を表して命名。

「W」
Washington Luis, Avenida
 ジャルジン・ベルジカ。1869年、マカエに生まれる。法学者、サンパウロ市長、州議員、大統領、歴史家として多くの著作を発表。

「Z」
Zaki Narchi, Avenida
 カランジルー、ヴィッラ・マリアナ。1883年、シリアに生まれる。最初のアラブ移民の一人。サンパウロのサンタナ地区で商業に従事する。

 

以  上



2006/02/01 » サンパウロでの駐在生活を楽しむには(レジメ)
2005/05/31 » パウリスタ界隈ガイド
2005/05/31 » サンパウロの主要通りの由来 (駐在員のための手引き)

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Pdf新型コロナウィルス情報(ポル語、サンタクルス病院提供)3/17

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